第三章
夜の太陽
世界が空だけになる直前、街がエテルナへ与えた最後のものは、足元で爆発するアスファルトだった。
風はあとから来る。彼女はすでに音の壁を遥か後方へ置き去りにしていた。
拳が剣の腹へぶつかった。熾火の筋を走らせた鋼の向こうで、サリンタが寸前に受け止める。衝撃が二人の腕を駆け抜け、ともに建物の間を昇り、地平線へ向かった。稲妻と炎、二重の弧を空気へ刻みながら。
衝突は一瞬、二人を噛み合わせる。次の瞬間、堰き止められた力が接触を破り、両者は弾かれた。
そこから先、二人の飛翔を人の目で追うことはできない。金と赤の軌跡が、街区を丸ごと抱くほど大きな螺旋を屋根の上へ縫いつける。交わるたびに閃光が開き、轟音は遅れて到着し、追いつけないまま二人を追い続ける。それでもエテルナには、すべての動きが見えた。斬撃を予告するサリンタの肩。剣の血管を走る炎。
応酬からこぼれた雷が、ごく稀にサリンタをかすめることはあった。残るのは浅い傷だけ。それも次のかすり傷がつくより早く、すべて塞がってしまう。
エテルナは、これほど生きていると感じたことはなかった。これまでずっと、息もできないほど疲れ果てるまで、自分を限界へ追い込んで鍛えてきた。だが、戦いで全力を出し切れたことは一度もない。それが今は、一撃ごとに持てる力のすべてを求められている。
炎の刃が弧を描いて来た。エテルナは前腕を交差する。斬撃は衝突へ変わり、二棟の間の空中で両者を止めた。解放されたエネルギーが、二人を反対方向へ投げ飛ばす。
エテルナは屋上へぶつかり、ブーツがコンクリートへ二本の溝を刻んだ。熱に晒された鎧が悲鳴を上げる。
何もかもが鮮明すぎる。自分を殺し得るものを前にしたときだけ届く、稀有な領域まで感覚が研ぎ澄まされている。エテルナが脅威を感じたのは久しぶりだった。
サリンタは向かいの塔へ、三点で身を支える低い姿勢で着地した。剣を体の後ろへ引き、爪の下でコンクリートが割れる。二人の前には、それぞれの軌跡がまだ空に垂れていた。片側は赤、もう片側は金。それが夜へほどけていく。
しばらく、どちらも動かなかった。
眼下では大通りが燃えている。塔の間を煙が昇り、二人を隔てる谷の上で熱が空気を揺らす。
エテルナは口元に残った血を拭い、すでに笑っている目を上げた。
サリンタも頭を反らして笑った。声が塔の間を転がり、燃える街区の上へ響いていく。
笑いが過ぎると、二人は向かい合う縁に立っていた。悪魔は急がず背筋を伸ばし、剣を低く保ったまま、同じ卓につく対等な者を量るように、エテルナを頭から足まで眺める。
「強いな。貴様を戦士と認めよう」
声から嘲りが消えている。
サリンタは顎で、エテルナの空の両手を示した。
「さあ、武器を召喚するがよい。待ってやる」
エテルナが手を閉じると、金色の稲妻が本人に代わって答えるように爆ぜた。
「武器? あたしにはこれしかないよ」
拳を上げ、腱を確かめるように何度か手を開いては閉じる。
「そうか」
炎の剣が空中へほどけた。火花が螺旋を描いて昇り、消え去る。サリンタの両手も空になった。
「ならば、これは不要だ」
エテルナは驚いて顎を上げた。
「無駄なこと...後悔するよ」
サリンタの顔に新しいものが浮かんだ。期待。
「なに。久方ぶりの宴だ。じっくり味わいたい」
サリンタは炎上する街へ両腕を広げる。
「強大な悪魔どうしは戦えぬ。弱者では興もない。真の戦いなど、長らく味わっておらぬ」
視線にいつもの尊大さが戻った。
「それに、思い上がるな。我の予想は超えたが、それでも貴様は弱い。そんな弱い相手に真の戦いで剣を用いるなど、我が誇りへの不敬となろう」
傾向が読めるほど多くの悪魔と戦ってきたエテルナには、分かる。今夜は、何かがおかしい。
一瞬、飢えが任務へ場所を譲った。彼女はディヴィジョンの捜査官として口を開く。
「何が目的? 何を狙ってるの?」
視線が周囲の廃墟を巡り、サリンタへ戻った。
「こういう連携した攻撃、あんたたちらしくない」
「愚問だな」
サリンタは肩をすくめた。答えなど心底どうでもいいと、顔に書いてある。
「策も、理由も、神話の争いも......つまらんことだ」
自分の手を見つめ、固く拳を握った。
「我が求めるものはただ一つ。強者との戦い。至高の宴。それ以外はどうでもいい」
黄色い強膜に、熱に浮かされた光が灯る。
「人間であろうと、天使であろうと、獣であろうと......何でもよい」
顔を上げ、再び向かいの建物を見た。
「貴様もそう思わぬか、火花よ?」
その瞬間、エテルナも同意していた。
「答えになってないが、嫌いじゃない」
腕を伸ばしながら、言葉を続ける。
「単純で、分かりやすい。あんたたちが何を企んでようと、何人いようと関係ない」
伸ばし終えて拳を握る。声は、彼女を知る者なら恐怖を覚えるほど冷たい静けさへ変わった。
「全員ぶち殺せば済むことだ」
すぐに笑みが戻った。サリンタの嘲りに、利子をつけて返す番だ。
「その挑戦、受けてあげるよ、角女。剣なしで戦いな。負けたあとで言い訳だけはなしね」
構えを上げるエテルナの腕を、金色の稲妻が包み込む。
「拳だけで語り合おう」
「生意気なガキめ」
エテルナの傲慢さが悪魔を喜ばせた。
「挑戦者は貴様だ、火花」
エテルナは皮膚の下へ稲妻を昇らせ、屋上全体を唸らせる。
撃ち出された。
屋上から屋上への移動はない。
ここにいた――次には、サリンタの背後。エテルナは拳を固め、射出の全重量を乗せて悪魔の肋骨を狙う。
測り合いは終わった。これは、戦いを終わらせ得る一撃だ。
肋骨の代わりに、拳は開いた掌へぶつかった。サリンタは攻撃の内側へ回り込み、すでに迎え撃つ準備を終えていた。
「速い」サリンタが言った。「だが足りぬ」
掌が咲いた。
至近距離に噴火が生まれる。掌と拳の間で圧縮された溶岩が外へ爆発し、エテルナを街区の向こうまで投げ飛ばす。鎧が沸騰し、その下の皮膚が悲鳴を上げた。
強い。反応が速すぎる。不意を突くのは簡単じゃない。
空中を引きずられながら、そう考えた。
サリンタが追う。エテルナは体勢を立て直し、空中のまま応酬へ戻った。大振りな動きを捨てる。
速度で圧力をかけ始めた。隙は必ず生まれる。稲妻をまとった拳、回し蹴り、肘、膝。もう一度。もっと速く。攻撃のたびに角度を変える。サリンタはすべてを籠手で捌き、達人の精度で前腕を一撃一撃へ差し込んだ。
エテルナは攻め続けた――サリンタが目の前から消えるまで。
声は背後から来た。
「見事だ。本当に見事だ」
サリンタの片手が腰元で握られ、炎が生まれる。
「だが、所詮は人間」
拳が来た。
世界が宙返りした。
エテルナは壁を突き抜けた。漆喰も煉瓦も梁も肩の周りで砕け、同じ瓦礫の山へ混ざる。誰かの居間の残骸へ背中から落ち、膝には破片、鎧からは瀕死の電弧が漏れている。
必要より半秒長く、座ったままでいた。
天井を見つめる。温かい血が耳の中へ流れ込む。
これだ。
若い頃から追い続けてきた、名も顔もない戦い。あまりに早く終わる任務では決して見つからなかったもの。この重さ。この圧力。この焦げた空気。この瞬間。
自分の歓喜の大きさに、危うく怯えそうになった。
「諦めろ」煙の向こう、外からサリンタが呼びかけた。「よく戦った。ここが貴様の終わりだ」
エテルナは立ち上がった。心は歓喜し、頭は冷えていた。
まだまともな一撃を当ててない。それに回復が速すぎる。あのわずかな傷も、もう塞がってる。
このまま正面から突っ込み続けるのは無理。この調子じゃ、ダメージが蓄積するのはあっちじゃなくて、こっちだ。隙を作って、まともに一発入れないと。
瓦礫を越えて通りへ出た。角では鋼鉄の柱が駐車禁止の標識を支えている。
あれでやるしかない。
指を揃えて刃とし、手刀の縁へ稲妻をまとわせ、柱の根元を一閃で断った。鋼鉄が一拍遅れて傾く。倒れる前に、エテルナは腰を軸に回転し、フリーキックのように蹴り飛ばした。
即席の槍が、地面すれすれを一直線に飛んでいく。反対側についた標識は、まるで巨大な矢の羽根だ。
「児戯だな」サリンタは手すら上げなかった。「そんな小細工、我には通じ――」
エテルナはすでに動いていた。
通りに残る窓を枠から引き剥がすほどの勢いで射出する。破片がまだ落ちるうちに、自分が蹴った柱を追い越し、台詞が終わるより先にサリンタの前へ現れた。
「な――」
拳。
猛攻は、気の抜けた防御では捌けないほど速かった。あまりの速さに、いくつもの拳が空中を埋める。二つ、五つ、十。サリンタは守りを固めるしかなく、打撃以外の何も見えなくなった。
「速いが、その軽い拳では我を倒せぬぞ!」
エテルナは攻勢を緩めない。思考が拳とまったく同じ拍子で打ちつける。
まだ! まだだ!
変化を許す隙を与えず、攻め続ける。時間が圧縮され、一ミリ秒が永遠になる。
もう少し! 最後の一ミリ秒まで攻め続けろ!
最後の瞬間、射線から外れた。
エテルナが引いた軌道を、柱が飛来した。猛攻は最初から攻撃ではない。サリンタの視線を誤った場所へ縛る、奇術師の手だった。鋼鉄が悪魔の左肩を貫き、地面から引き剥がし、大通りの先へ運んでいく。
「ぐううっ! くだらぬ小細工を! この――」
エテルナは空中で追いついた。
「捕まえた」
突き刺さった鋼鉄をつかみ、嵐をその中へ注ぎ込む。柱が白く輝き、サリンタの体が軸を中心に痙攣した。標識を足場に跳び、その上へ着地し、自らの槍へ立ったまま乗って進む。乱気流に煽られ、髪が鞭のようにしなる。
たった今見せた優雅さとは正反対の暴力で、エテルナは稲妻を履いた蹴りをサリンタのこめかみへ叩き込んだ。
悪魔の軌道が左へ折れた。
ホテルの大理石の正面を突き破る。看板が頭上で一文字ずつ爆ぜ、彼女はロビーへ消えた。
粉塵が収まると、あとには瓦礫の山。その中心から、柱だけがまだまっすぐ上へ突き出ている。
旗竿のように。
エテルナは通りへ軽く着地し、長く息を吐いた。
「今のはさすがに効いたっしょ」
瓦礫の山が丸ごと爆発した。
「殺す!」
サリンタは低い姿勢で現れた。肩から残った溶融金属が流れ落ち、大理石の上で音を立てる。黄色い目が廃墟、煙、物陰を探る。
「どこだ?」
そこでようやく顔を上げた。
通りの反対側、空中でエテルナが待っていた。
高空に浮かぶ彼女の両手には、電柱の間から引きちぎった高圧線の束が二つ。切断されているのに、街区の灯りは消えていない。電流は傷一つ与えず彼女の体を通り、送電網へ戻っていく。まるで銅やアルミニウムよりも、彼女のほうが抵抗が小さいかのように。
「まだ終わってない」
稲妻が彼女から電線へ、電線から彼女へと走る。
「これがとっておきじゃん!」
そして引いた。
電流が反転した。街のエネルギーが一点へ走り、すべてが消える。窓、街灯、看板。彼女自身まで。一秒だけ、世界の光を呑み込んだかのような、完全な闇。
そして闇の中から、咆哮して戻った。
黄色い爆発が、世界を再び照らし出す。その中で雷の獅子が電弧の鬣を逆立て、アスファルトへ両脚を食い込ませる。エネルギーは形を保つには荒々しすぎた。生き物は爆ぜるたび崩れ、描き直され、一秒に千回作り直されていく。
何キロもの範囲で、エテルナが重力の中心となる。電柱ほど太い放電が彼女から逃れ、コンクリートを、大地を、空を引き裂いた。
眼下でサリンタが顔を上げた。その表情を、感嘆と衝撃が満たしている。
「おいおい......人間がここまでやるというのか?」
「行くぞ」
「皇帝雷撃――スーパーノヴァ」
エテルナが消えた。
瞬き一つ――彼女がいた地点で空気が閉じた。彗星のように街へ降る。その背後では、金色の獅子が天の怒りさながらの雷嵐を引き連れている。
サリンタは一歩も退かなかった。
瓦礫へ足を据え、構えを広げ、全身を衝撃へ差し出す。
「そうだ! 来い!」
炎が地面から角まで、その身を駆け昇る。
「力比べといこうではないか、小娘 !」
伸ばした腕から炎が跳ね、空中で彗星を迎えた。
「宴の時間だ!」
攻撃が衝突した。地獄の奔流が電撃へ噛みつき、二つが混ざり合う。
衝突とともに炎と稲妻の巨大な柱が立ち昇った。二つのエネルギーが通りと雲を結ぶ。根元では白い球が膨らみ始め、成長しながら周囲のすべてを薙ぎ払っていく。破壊は頂点へ達する。街区が丸ごと蒸発し、夜が下から上へ照らされた。
建物の一室を閃光が満たし、瓦礫の中で向かい合うジョヴァンナとリゼスを照らし出した。二人は構えを崩さず、ちらりと外に目をやる。
マベルの前の水が白く照らされる。彼女とエリンはほんの一瞬だけ爆発の方を見て、すぐに互いへ視線を戻した。
ベアトリスは、ガレーネの翼の向こうで空が明るくなるのを見た。そのエネルギーの正体をすぐに悟り、轟音が迫る中、足を踏ん張る。
最初に残ったのは唸りだけ。やがてほかの音が戻ってきた。炎の爆ぜる音、昇る煙、積もる粉塵。
煙の中から、サリンタが歩み出てくる。最初は輪郭と角と髪だけ。次には全身。傷ついてはいるが、死にはほど遠い。肩の穴は新しい肉の糸で、すでに自らを縫い閉じつつあった。黄色みを帯びた肌には擦り傷が走っている。
そして笑っていた。
「悪くない。実に悪くないぞ、火花」
胸を叩いた。
「さて、まだ続けるか? それとも、今のが全てか?」
攻撃が残した荒野の向こうで、エテルナは深く息を吸い込んでいた。背中はわずかに曲がり、鎧からまだ金色の糸が漏れている。爆弾に等しいエネルギーを放ったばかりだ。その反対側で、悪魔は首を鳴らしていた。
あれだけやって、かすり傷だけ? こいつ、とんでもない化け物じゃん!
笑みが止まらない。
罪悪感が追いつくより先に、答えが漏れた。
「あたしまで燃えてきちゃった」
背筋を伸ばした。一方の笑みが、もう一方を映している。
「この戦闘狂の悪魔。そんなの当たり前じゃん」
呼吸はまだ整っていない。それでも歩き始めた。
サリンタも迎えに出る。
走らなかった。骨まで削られた地面を、ゆっくり歩いて渡る。焼けた大地から残り火が昇った。距離が縮まっても、どちらも視線を逸らさない。
街のどこかから、音楽のくぐもった低音が、耳で聞くより体で感じる脈動となって届いてくる。
その歩みの途中で、エテルナが閉じ込めたかった考えが浮かんだ。明瞭で、危険な侵入思考。
くそ。今はもう、ほかの何もどうでもいい。街も、命令も、未来も。これがまだ終わってほしくない。
なぜ閉じ込めようとするのか、エテルナには分かっていた。無視してはいけないものを、無視しているからだ。
それでも、無視した。
「どっちかが塵になるまで続けよう!」
同じ歩調のまま、進み続ける。
「それでこそだ!」サリンタが歓喜に満ちて応えた。
炎が残った屋根より高く昇り、海からも見える柱となる。
「さあ、戦おう、小娘」
指一本の距離で止まった。
最小の筋肉の収縮さえ感じ取れるほど近い。片側は赤、もう片側は金。火花が顔と顔の隙間を渡る。双方の顔には満足があり、二人の間の空気は限界まで圧縮されたばねのように、いつ暴力的に弾けてもおかしくなかった。
最初のコメントを投稿しませんか。